悪口を言うことを自粛しても批判したい気持ちは変わらない

インターネットで悪口を言わないほうがいいという発言が、いくつか目に止まった。
マナーや節度を守ることで、ネット上の情報の質を高めていくべきだという考え方だ。

他人を口汚く罵ったり、陰謀論のような過激な投稿ばかりする人がいたとします。そういう人は、興味本位で集まってくるユーザーとは繋がれるかもしれませんが、情報リテラシーの高いユーザーは離れていってしまいます。すると質の良い情報が集まってこなくなり、自分が発信する情報の質も悪いまま。そして、情報リテラシーの高いユーザーからさらに敬遠され……と、「情報の渋滞」を加速するネガティブスパイラルに陥ってしまうんです。

―逆に「思いやり」を持った人には、質の高いユーザーが集まってくると。

佐々木:その通り。最近ではFacebookが普及したことにより、ネット上の評価が現実世界での信頼担保にも繋がる社会になってきました。

佐々木俊尚インタビュー ネット社会では悪口を拡散してはいけない - その他インタビュー : CINRA.NET

ブログやtwitterを眺めていると、ワイドショーを劣化させたようなアカウントをしばしば見かける。ありとあらゆる話題に言及しているけれども、どれもこれも底が浅く、皮相的で、読者におもねるところ甚だしいようなアカウントだ。時事の話題、ネットの話題には手当たり次第言及しているのに、ユニークな思念も、一貫性も香り立って来ない

なんでも手当たり次第に言及しているアカウントは、ワイドショーの劣化コピーになってしまう - シロクマの屑籠

よく終身雇用と年功序列が成立したのは戦後の高度成長時代だけだったといわれることがあるが、それと同じようにネットで自由な発言が許されていたのも、そろそろ終わりに近づいているのではないかと感じることがある。
もちろん自由なネット文化がなくなることはないだろう。
現在でも、ヌード写真や目を引く画像が次々と借用され続けているTumblrのようなサービスもある。
その一方で、SNSやブログでの発言に気をつけるべきだという意見が増えている。
かつて、有名人が匿名の発言を非難することが多かったが、最近では匿名実名に限らずネット上での発言には注意すべきという論調になってきている。

ネガコメには悪口と批判の2種類がある。それは

社会が良くなるための視点から書かれている
代案が提案されている

の2点があるかどうかで分類可能。

悪口にはこの2点がなく、単に「攻撃をして憂さを晴らしたい」というだけの非生産的な攻撃行為になっている。

悪口と批判の見分け方 - xevra's blog

誰かをDisっているブログはDisってよいみたいな風潮があると思います。因果応報、反面教師、自業自得、色んな言葉で表せますが、悪意をふりまくと、その同様の悪意に巻き込まれることは、逃れられないと思います。

悪口を言われないためには「言わない」と「悪口だと思わない」かな…と思いました。 - 団劇スデメキルヤ伝外超

個人的には悪口を言うのも、Twitterブコメで批判するのも、やっていることはほとんど変わらないと思う。
「こいつはバカ」と悪口を言うのも、「この人は話が通じないから……」と上から目線で嘲笑するのも、本人に対するダメージはさほど変わらないし、むしろ悪口を言われた方が傷つかない場合もある。
悪口を言わないようにするのは自分を賢く見せるテクニックではあるが、言葉を変えて批判するほうが陰湿ないじめにもなりかねない。
「まつたけのブログ」がブックマークコメントで叩かれていたことに対して増田に投稿されていたが、ブロガーの側に立てばそういう見方もできる。

当事者ならともかく、関係ない人たちが嬉しそうにニヤニヤしながら、「小物」だの「つまらない」だの「負け犬」だのと、本人に聞こえるように罵声を浴びせて、お互いのコメントに嬉しそうにスターを付け合っている様はいじめとしか言いようがない。

自殺を促すようなコメントまであるし。

過去、自殺すると言ってたのが嘘だったからといって、今後自殺する可能性がゼロだとでも思ってるんだろうか。思ってるんだろうな。

村のいい年こいたおっさんたちが、他所から引っ越してきた厄介者に嫌がらせをしてる図にしか見えない。醜い。

村の悪質ないじめ

はてなブックマークを見ていれば、ブコメが批判で埋めつくされているのを目にすることがよくある。
「目を疑うひどさ。」
「哀れみを感じる。」
こうしたユーザーが、悪口を言わないという表面上のマナーだけ取り繕ったところで、大きく変わるとは思えない。

一般化して大人しくなるインターネット

シロクマ先生のエントリーではユーザーに自省を求めているが、その意見に対して批判的なコメントも散見される。

ワイドショー的な書き言葉が逐一アーカイブ化され、リツイートやシェアで拡散するようになったことで、たわいもなく忘れられていく筈だった泡沫会話がどんどん巨大化するようになった。話された言葉ではなく書かれた言葉からなるワイドショー的会話だからこそ、泡は、はじけて消えることなく、拡散する。

ネットでは、給湯室談義が権力を帯びるようになり、ワイドショー人間が権力者になる - シロクマの屑籠

sunin sunin ではネットが無かった頃の言論が今よりも質が高かったというと、そうとも思えないのだが。

JuliusCaesar JuliusCaesarテレビのワイドショーもまた何人もの人生を壊してきたし、ムラ社会における井戸端会議も十分に暴力(暴力的でなく)だった。昔も今も人間は変わらないという方が当たっている。

マナーを守ったとしても、人を批判したい欲求はなくならない。
結局のところ、そう簡単には変わらないだろうと思う。

そういえば、ブログが創作か事実かといったことも、少し前までは騒ぎになるような話題ではなかった。
かつて個人ブログは同好の士が読むような同人誌だったのに対して、いつのまにか自費出版して書店に並んでいるような扱いになっている。
だからマナーを守って発言しないと、すぐに叩かれて炎上する。
アフィリエイトを貼って収益を得ていることも、社会的な責任を求められる一因だろう。
デマを書いて煽ったりしてアクセスを稼ぐのは許される行為ではない。

昔は少しくらい危ないことや極端なことをブログに書いていても、スルーされるだけだった。
ところが現在では、晒し上げの炎上もあるので、最初から最低限のリテラシーが求められる。
「まつたけのブログ」のように、まったく空気を読まないで運営することも可能ではあるが、現実的には難しい。
ネットが一般化するということは、だんだんネットがつまらなくなっていくということでもある。